現地支援活動報告(報告者:事務局 北條悟)
浄土真宗本願寺派京都教区では、現地支援の準備を整え、5月23日(月)~27日(金)の5日間の日程(トラックでの陸路往復の為、 現地での活動は3日間)で教区の寺族青年の有志が中心となって9名のメンバーで現地への災害救援のボランティアを行なった。
教区内各団体・個人からの現地活動支援金も予算を軽くオーバーし、次回へのプール金となりうる程にまで集まり、 教区寺族婦人会連盟からの呼び掛けにより、2トンロングのトラックに物資を満載するほどの救援物資を積み込んで京都を出発した。
尚、メンバー中2名は、日本エンディングサポート協会に登録している 淨光寺住職の北條と保福寺住職の中原である。
【活動初日】は、二隊に別れて…。
・東松島市・石巻市に於いて、トラックにて積載してきた救援物資を必要に応じて提供する作業 (物資は、米・野菜・バナナ・生活用品・土のう袋等)
・事前登録しておいた東松島市災害ボランティアセンター指示により、津波で一階部分を流された家屋の泥かき・ 家財道具の搬出 仙台に戻り、京都市内の小学校から託された、 児童1000人によって制作された1羽1羽にメッセージの入った千羽鶴を仙台市内の小学校に届けた。
【活動2日目】は、気仙沼市の本吉広域防災センター避難所(避難者約100名)と近隣の松岩小学校避難所(避難者約40名) に於いて炊き出しを行なった。 特に、防災センターでは、この時点でも尚毎日の配食がおにぎりやカップラーメンという状況であり、 野菜の摂取が必要であると考え、また“京都の色”を出すために、メニューはたけのこの炊き込みご飯・京つけものの4種食べ比べ・ 具だくさん野菜のみそ汁・ほうじ茶…と徹底的にベジタブル志向にしたが、これが避難所の方たちには大いに喜んで頂けた。
尚、おつけものは京都西本願寺前に本社本店を構える(株)西利さまの全面バックアップ(無償提供)、 たけのこは京都向日市の三番屋さまが無償提供して下さった地産のものであった。
炊き出し終了後は、事前にピンポイントで連絡(必要な救援物資の聞き取り)をしておいた近隣の公立保育園3ヶ所とキリスト教 (バプテスト教会隣接)の幼稚園に物資を提供した。
粉塵が舞う町で、子どもたちのマスクの必要性を訴えられていたし、これからの時節として夏物の子ども用衣料(Tシャツ・パジャマ) やおむつ類・蚊取り線香を提供した。また、保育園には、京都市内の本願寺派保育園の園児が作ってくれた千羽鶴もお渡しした。
帰路に向かう前、暮れなずむ気仙沼の被災地を走らせ、「これは震災直後の風景じゃ無いんだ。2ヶ月半経過した風景なんだ」と、 商店が立ち並んでいるにもかかわらず現在でも尚信号が点灯せず人の姿が全く見えない現状を見るにつけ、 その災害の酷さを実感しつつ仙台に戻った。
【活動3日目】は、メンバーの1名だけが石巻市の本願寺派寺院(称法寺)に於いて瓦礫の撤去等の作業。
残りの8名のメンバーは、女川町の鷲神公園仮土葬場並びに、同じ女川町の総合運動公園内ご遺体安置所に於いて、 ご本尊を安置して読経を行なった。
仮土葬場では、その木碑のすべてに【不詳】が記されていた。
ご遺体安置所では、管理責任者の方や管轄の警察官の方たちのご理解があっての読経であった事を加筆しておきたい。
活動を通じて思った事は、ボランティア活動の基本は「行って良かった」「活動が出来て良かった」 との思いはボランティアを行なう側の思いであり、自己満足であると云う事に他ならない。やはり、被災した方々の笑顔や言葉によって 「来てくれてありがとう」の思いがメンバーに届いてこそ成り立つものである。
まるで街並みが空爆を受けたかのすさまじい光景は、被災していない地域からだんだんと変わって行くのでは無く、 あるところから突然に変貌する事も実感した。
100m前までは信号も街灯も、そして家の明かりも灯り生活感をかんじていたが、 ほんの少し車を移動しただけで突然にゴーストタウンのように町や道路が静まり返っていた。
この光景が震災直後では無く、二ヶ月半を経過した光景である事が、その被害の重大性を物語っていると実感した。
神戸の震災の時は、この時期(震災発生から二ヶ月後)には行方不明者が一桁であったと聞いているが、 この度の震災ではまだ数千人の行方不明者である。
私たちは京都に戻り、いつもの生活に戻り、何の不自由もない生活をしているが、原発被害の福島の皆さまも含めて、 被災地ではトンネルの出口が全く見えない生活に苦慮されている。
私たちは、健常者の方たちとしか交流しなかったが、介護を要する方をお持ちのご家族や、重い疾患・ 障がいをお持ちの方たちはさらに困窮されているのであろうと思う。
すべての方たちが元の生活に戻れる日が来るのは何年も必要であるのだと思うが、その日が来るのを心から念願するところである。
炊き出しは本当に大変な作業ではあったが、被災した皆さんとの距離が本当に近く、苦しいお気持ちも自立に向かう気持ちも、 肌で感じる事が出来たのはほんの少しの私たちへのご褒美なのかな…と思えた。