【2012年6月】浄土真宗本願寺派京都教区寺族青年有志現地支援ネットワーク

2012.7.24|サポートメンバーの活動ご紹介

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*釜石市小白浜に建造されたスーパー堤防も無残な姿を見せている。しかし、この堤防がなかったら、もっと甚大な被害が及んだだろう。

第6次支援活動の報告

第6次支援活動は、6月4日から8日までの5日間の行程中好天に恵まれ、予定通り活動を終えることが出来ました。いつもの気仙沼市切通仮設住宅での”ふれあい”は勿論のこと、現地社会福祉協議会からの紹介で、未だボランティアの手が差し伸べられていない仮設住宅にも訪問することができました。切通仮設住宅では、若手のお父さんたちが用意してくれたご当地B級グルメの「気仙沼ホルモン」を堪能し、お仕事であまりお会いする機会がなかった若い世代の方々とも交流することができました。
また、活動の初日と最終日の2日間は、岩手県宮古市~大槌町~釜石市~宮城県気仙沼市~南三陸町~女川町~石巻市~仙台市と、津波で被害を被った海岸線のルートを巡り、テレビや新聞などに取り上げられることのなかった小さな沿岸部の集落の現状視察と、第1次・第2次活動時に撮影した同じ場所において被災1年後の記録写真を撮影してきました。

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1日目  先発隊メンバー4名は、午前7時15分大阪伊丹空港発の飛行機で仙台へ。仙台より新幹線を乗り継ぎ岩手県の盛岡駅には午前11時に到着。ここからレンタカーで宮古市に入り、壊滅的な津波被害を受けた海岸線を南下していきました。発災後最初に東北を訪れた頃は、目にするすべての光景がショックで、言葉も出なかったのですが、その後1年以上が過ぎ、ガレキ等の撤去が進んでいるとはいえ、木造住宅は建物の基礎部分だけを残し、鉄骨造の建物は津波の影響を受けた部分だけが鉄骨むき出しで建っているその光景を見ても、何度も来ているうちに私たちの心の中でそれが”被災地での普通の光景”となっていることが、ある意味怖いことを感じました。
道中、陸中山田までの道路は、離合も容易でない細い道のうえ、連続したカーブが続き、目視で海岸線の様子を確認することも難しい状況でしたが、大槌町の安渡地区には午後5時頃に到着しました。第2次活動でガレキ撤去を行なった場所の状況は、あれから1年弱の月日が経過しているにも関わらず全くといっていいほど変わっていませんでした。変わったところといえば、ガレキを積み上げた巨大な山があちこちに見られるようになったことでしょうか。多くの職員が犠牲になった大槌町役場の旧庁舎やプラットホームだけがかろうじて残った大槌駅を訪れた後、本日の宿泊地である釜石へは午後6時30分頃に到着しました。

2日目  朝食後、第2次活動で訪れた、大型タンカーが座礁していた釜石漁港を訪れました。が、すでにタンカーは海に返され、前回見たような光景ではありませんでした。記録写真を撮り、その後、釜石市郊外の小白浜漁港を訪ねました。報道では知ることができなかったのですが、その集落は昭和54年から11年の歳月と10億円以上の経費をかけ、村を津波から守るために造られた高さ12メートルを越える防波堤があったのですが、巨大津波によって無残にも破壊されてしまった光景には、被災地の景色に慣れてしまった私もさすがに言葉を失いました。
ここの住民は、どのような思いで先達たちが建造してくれた巨大な防波堤が大津波に呑まれていく光景を見ていたのかを思うと、やりきれない気持ちが込み上げてきます。その後大船渡市へ向い、元大船渡駅前に仮設された商店街があったので昼食を兼ねての休憩となりました。休憩中に商店街の一角にある婦人服店の店主が、この街の発災当時の様子や将来の大船渡の展望などを親切に教えて下さりました。
休憩後、陸前高田には午後1時に到着。一番に超宗派で建立された震災犠牲者追悼の碑に参拝し、その後、市消防署・陸前高田高校等を訪れ、気仙沼市へ向かいました。途中、高田松原の奇跡の一本松を遠望しましたが、遠目に見ても完全に枯死しているのがわかります。気仙沼市には、ほぼ予定通りの時刻に到着。昨年の第1次活動時に炊き出し活動を行なった、当時避難所として使用されていた気仙沼・本吉防災センター、さらには東北の津波被害の状況を初めてこの目で見た場所である松岩地区。その場所を通るまでは地震の影響も私たちにはあまり感じられず、住居も普通に立ち並んでいたのが、ある曲がり角を曲がった途端に、何かもがめちゃくちゃに破壊し尽くされ、ガレキと押しつぶされた自動車と、たくさんの自衛隊員がゾンデ棒を持ちご遺体の捜索をされている光景を見た場所です。ここでも記録写真を撮りました。
その後、今日から合流するメンバーを待つために気仙沼駅へ向かいました。午後4時頃に合流し、今回の参加メンバー全員が揃いました。まずは、気仙沼市社協ボラセン(ボランティアセンター)に届けてある備品(テントやたこ焼き器・マット等)を積み込み、宿所である気仙沼プラザホテルに一旦チェックイン。そして、タクシーで切通仮設住宅へ向かいました。今日の夕食は、仮設住宅前の広場でのホルモンバーベキュー。前回(震災1年後の3月訪問時)に、切通仮設住宅の若手のお父さんたちから「気仙沼といえば豚ホルモン!カツオやサンマもいいけれど、今度は名物の”気仙沼ホルモン”を用意して待っていますから」と、気仙沼=海産物と思っていた私たちにはよくわからない事を言われていたのですが、それがこんなにも早くに実現するとは?!。天候にも恵まれ、仮設住宅の皆さんとの会話も美味しい肴となり、バーベキューパーティーは遅くまで続きました。

3日目  メンバーのうち4人は、早朝より陸前高田の一本松を見に行きました。1月に見たときに比べて、思う以上に腐食が進んでいました。以前根元に安置してあった地蔵菩薩像も今はありません。朝食後、午前9時半に切通仮設住宅へ伺い、活動開始。今回は大阪名物「たこ焼き」を振舞い、ボディーケア(按摩)マッサージ班と共に傾聴活動を行うことが目的なので、午前10時半頃からたこ焼きの仕込みを開始。談話室ではすでにマッサージが行われ、皆さんの笑顔と笑い声が外にも漏れてきていました。
私たちがたこ焼きを焼いている間、その横では仮設住宅の女性の皆さんが私たちのために手作り餃子を焼かれていました。周りには食欲をそそるいい香りが漂います。みんながお腹一杯になり談笑や傾聴、マッサージを行なっている頃には、学校や幼稚園から帰ってきた子供たちが集まりだし、すぐにたこ焼き屋の再開。東北の子供たちもたこ焼き作りは珍しいらしく、興味しんしんで私たちの作る手元をじっと見ていたのが印象的でした。
あっというまに夕方になり、明日は他の仮設住宅での活動があるので撤収を始めました。その日の夜は、仮設住宅の方たちからのお誘いを受けて急遽カラオケボックスに出掛ける事になりました。震災の爪痕が残る南気仙沼地区にあるお店ではありましたが、カラオケ中はそんな事も忘れてしまえるほど楽しい夜が更けていきました。

4日目  今日は、現地ボラセンからの紹介があった、市内松崎地区の仮設住宅での活動です。その内容は昨日の活動と同じく、たこ焼きの炊き出しとボディケアマッサージ、そして、大切な傾聴活動です。この仮設住宅も比較的小さい規模(25世帯 約50人)であり、今までに一度もボランティア活動が受け入れられていない仮設住宅でした。しかし、初めてのボランティアの受け入れではありましたが、自治会長をはじめ、ご婦人の方々が率先して私たちの活動を受け入れて頂き、また社協スタッフの手伝いもあって、順調に活動を終える事ができました。仮設住宅の皆さんは今回が初めての活動受け入れであることからお疲れが出てもいけないのであまり長居はせず、再会できることを念じつつ午後2時頃には撤収となりました。
その後、午後4時に当日帰着隊の5名は新幹線一ノ関駅へ、明日まで活動を続ける2名は南三陸へと向かいました。南三陸までの道のりでは、あちこちで線路が分断(壊滅した鉄橋等)している光景を目にしましたが、そのどれもが”当たり前の光景”になってしまっており、記録写真を撮ることもなく、ただただ車窓から眺めているだけでした。やがて、夕暮れの南三陸に到着すると、建物もほとんど残っていない街の中に、自分の命を顧みず最後の最後まで街の人々に避難を呼びかけ続けた遠藤未希さんが勤めておられた南三陸町防災対策庁舎が私たちの目に飛び込んできました。あいにく日暮れ時でもあることから、明日もう一度この場所へ戻ってくることを約束し、街の外れにある宿所に到着したのは、午後6時半を過ぎていました。

5日目  今回の活動最終日。南三陸町から石巻を通って、仙台空港までの道のりです。この日は、人けのない早朝に街を見て回りました。松原公園に静態保存されていた装備重量100tを超える蒸気機関車が、がれきの山に半分埋もれた状態で放置されている光景も見ました。また、昨日時間がなくてお参りすることができなかった南三陸町防災対策庁舎は、赤茶けた骨組みだけが残り、その前の祭壇には慰霊に訪れた方々が置いていった多くの千羽鶴や花束が建物の入り口を飾っていました。その後、南三陸を再び南下しました。
女川町に入る前に、全校児童108人のうち74人、教職員10人が犠牲となった石巻市立大川小学校に立ち寄りました。超宗派やご遺族で作られた大きな慰霊壇を見ていると、どうしてあれだけたくさんの命を失うことになったのか、本当に無念に思いました。私たちが手を合わせているとそこに、初老の男性がバイクで来られたのが見て取れました。その方の上着のポケットから出された写真には、お孫さんであろう3人が写っていました。1年3ヶ月が経過しようとも、お孫さんを3名も一度に失われたその悲しみは少しも和らいでいないことを感じ、本当にいたたまれませんでした。
その後、昨年の5月に訪れた女川町へ向かいました。まずは、鷲神公園へ。当時まだ仮土葬場になっていた青空駐車場です。すでにご遺体はすべて改葬されており、土葬場として使われていた場所の周辺は雑草が生えてきていました。発災当時は、おそらく数年は改葬すらできないだろうと言われていただけに少し安堵することができました。その後、女川町総合運動公園へ。
ここは、当時女川町で発見されたおびただしい数のご遺体の安置・安否確認所や被災者の避難所、自衛隊第14旅団による入浴・給食等の被災者支援施設になっていた場所でした。もちろん今はもうその面影も全くなくなっていました。女川町を午前11時過ぎに出発し石巻へ。石巻の街を一望できる日和山公園には正午に到着しました。巨大津波で壊滅した海岸線沿いの風景は、ここも同じく1年前と大きな違いは感じられませんでした。その後、石巻市に唯一ある浄土真宗本願寺派寺院の称法寺に向かいました。
記録写真の撮影後、石巻を出て海岸線を南へと進みました。今回の活動の最後に、仙台市郊外の荒浜地区に向かう事にしました。3月11日、皆さんもニュースで見られたと思いますが、震災時のヘリコプターからの映像で、海岸から津波が押し寄せ、防風林や畑、家屋や自動車を次々と飲み込んでいく光景があったあの場所です。しばらく走っていると、あるお寺の看板が目に入ってきました。浄土真宗本願寺派の専能寺というお寺でした。飛行機の搭乗時間にはまだ余裕があったので、少し立ち寄ってみることにしました。
ちょうど坊守さん(ご住職の奥様)がおられて、ご門徒様数人と本堂の前で立ち話をされていましたが、私たちの突然の訪問にも関わらず、当時のご苦労話や、墓地の再建のこと、本堂や住居に残る津波の爪痕を丁寧に説明して下さいました。活動の最後にようやく本来あるべきはずのお寺の姿を見させてもらったような、少し嬉しい気がしました。坊守さんに突然の訪問を詫びお寺を出発し、午後5時頃には仙台空港に到着しました。レンタカーを返却し、空港内で仙台名物の牛タン焼きを肴に今回活動のお疲れ会をささやかに行い、午後7時5分発の飛行機で大阪(伊丹)へ、午後10時頃に自坊へ無事到着し今回の活動は終了しました。

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今回の活動において、傾聴活動はもちろん、初めてボランティアを受け入れてくださった仮設住宅の方たちと交流できたことや、大船渡では商店のご主人から聞いた、この街の復興計画について、非常に困難な問題が山積していることなど、現地に行かなくては見ることができないことや、普段聞けない生の声をたくさん聞くことができました。また、私たちの東日本大震災第1次支援活動から数えて今回で6回目を数えることができたこと、初めての活動から1年以上が経過した現地の様子や報道されていない小さな町の現状を直接見ることができたのは今後の支援活動にも活用できるのではないかと思います。

*スーパー堤防の概要が書かれている看板。11年の歳月と10億円を越える費用をもって建設された堤防も津波には勝てなかった。これだけ頑丈な堤防を造ったとしてもやはり「避難に勝る防護なし」の標語を忘れ去ってはいけない。

*大槌町安渡地区に集積されたガレキの山。分別されたうえで処分されるというが、処分が完了するまでに一体何年かかるのだろうか。

*仮設住宅若手のお父さんたち四人衆と気仙沼ホルモン。キャベツの千切りと共に食べるのだが、これが本当にビールに合うこと!美味し!

*初めて訪れた松崎柳沢上住宅にてたこ焼きの炊き出し。おばちゃん達が、私にもさせてとたこ焼きをクルッとひっくり返しに来られる。結構いい手つきでした。

*赤茶けた鉄骨だけになった南三陸町防災対策庁舎。大津波は周囲の全ての建物を巻き込み、この建物を完全に飲み込んでしまった。

*松原公園に横たわる蒸気機関車C5816号機。元の場所から10m以上も流され、動かすこともできずに放置されたままの状態になっている。

*大川小学校の校庭にあった壁画には卒業生たちが思いを込めてかいた宮沢賢治の影絵と、賢治の残した言葉が見て取れる。

*専能寺の境内に掲げられた墓地修復工事の看板。既に第1期工事はほとんど完了している。住職とご門徒様の熱意に頭が下がる思いである。